2015年3月11日水曜日

アンコール「道草のススメ」(2011年3月)

 私はいつでも暗中模索だし、おかげで一寸さきは光のような気がしている。(長谷川四郎)

 1年前の3.11は、出産の「予定日」で、しかも光海はその日ぴったりに生まれてこようとしたので(結果的には一日ズレたのだが)、頭のなかは出産のことで一杯だった。でもきっと「予定日」に生まれてくることはないだろうと思っていたので、事前には「アンコール「道草のススメ」」というのを書こうとしていた。書こうとしていた、というよりも、震災のあった「2011年3月」の「道草のススメ」を読み返していた、というだけのこと。あらためて今日また読んでみて、少し編集したけれど、ほとんどそのまま再掲します。なお、写真は大部分を省略しました。

 ──震災の直前の時期、ぼくはかなり暇だった様子。いろんな意味で一番「ひきこもり」っぽかった時期かもしれない。だから、震災のあとも、生活はたいして変わっていない。でも、(ここには書いていないけれど)たまに仕事をもらっていた会社が開店休業状態に陥ったくらいのことはあったのではないか。でも、それはもっと個人的な話。「道草のススメ」では、あきらかに、ある一定の人たちにむけて書いている感触がある。そんなことも、とっくに忘れていた。


春がきて冬がきて(2011.3.1)
 今日はまた冷たい雨が降っている。写真は日曜の昼。府中の「郷土の森」まで、ちょっくら梅みにいってきた。ついでにプラネタリウムなんかみたりして。あたたかいなぁ。春だなぁ。なんて思っていたら、また冬の日だ。



犠牲にしない(2011.3.2)
 映画「英国王のスピーチ」に対する報道から、あいかわらず「成長しつづけること」というか、「明日は今日よりも賢く、豊かになっていなければならない」といった、「明日のために今日は犠牲にすべき」といった考え方がはびこっているんだなぁと感じるが、インターネット上の声を聞いていると、案外そうでもないというのが素直な感想だ(そうでない人が少なからずいるということ)。


定点観測(2011.3.3)
 「選択肢が増える」のは、果たして良いことか、という疑問(自分の抱いた疑問)に対して、長々と書いていた。
 写真は、まさに定点観測。この部屋からの景色。北西方向。



夢で(2011.3.4)
 昨夜は横になってからしばらく眠れなかった。今朝、小川国夫さんが夢のなかに出てきて、ぼくに何かを言っていた。いつもたいしたこと言わないんだけど(笑)。
 起きて、毎日の習慣で「モーニングページ」をやってから、いつも傍らに置いてある例の本を開いたら、「助けられることと、まるで無力のように扱われることとの間には、大きな隔たりがある。」という文章にぶちあたった。昨夜、自分が書いて吐き出したものが、それで救われた気がした。
 さ、また今日一日。


星の「王女」さま、たち(2011.3.5)
 今日は昼から、仲田恭子さん演出の「星の王子さま」を観てきた。場所が遠かったので、半日がかり。仲田さんがこの半年間ほど行ってきた「星の王子さまプロジェクト」というワークショップの、いわば発表の舞台で、プロの役者も数人いるけれど、大半はいわば「素人」。サン=テグジュペリの物語「星の王子さま」に出てくるいろいろな要素を、彼女らの感覚で通して見せてくれる。もし原作を知らない人が観たとしたら、「星の王子さま」のことはよくわからず、日常風景の「あれやこれや」を見ているだけのように感じるかもしれない。ワークショップの性格上、仕方のないことかもしれないが、全体としては「小ネタ集」という趣もあって、ちょっとくたびれる場面もあったが、まぁそれも「お腹いっぱい」という感じで。個別の表現、言葉に、考えさせられるシーンもあった。
 昨日、今日と、ぐっと寒かった。明日はまた春の陽気だとか。


ちょっとした支え(2011.3.6)
 ところで、山本ふみこさんの本、少しずつ読んでいる。この数日は、『ふだんの暮らしがおもてなし』(晶文社)を。エッセイのいわゆる「本文」だけじゃなくて、タイトルや、表紙とページのところどころに現われるイラストの猫、動物たちや「日常のあれこれ」も、さりげなくて好きで。「ちょっとした支え」になってます。
 昨日の夕方、外にいて、何だか面倒だったので牛丼屋にでも入って終わらせようかと考えて、でもこの本を手に思いをめぐらせて、やっぱり帰ってご飯くらい炊こうと思いなおしたのだった。
 そういえばぼくの部屋には生き物がいないな(←自分を忘れている)。猫でも飼おうか。あ、飼えないんだった。花とか草とかでいいんだ(←せめて名前で呼んであげよう。ようは何も決まってないんだけど)。ネギとかでもいい。


雪化粧(2011.3.7)
 朝、雨が降っていて、やがて雪になった。うっすらと雪化粧。
 昨夜はここ最近でもないくらい最悪の気分で、毛布をかぶってじっとしていたら、眠っていた。よくまぁやっている。粘り強い。


断食(2011.3.9)
 今日から「断食」をすることにした。「断食」といっても、食事をしないというのではなくて、「活字&情報の断食」。考えているうちに、これは「断食」に近い、と感じられてきたので、自分で勝手にそう呼んでいる。つまりインプットを最小限に抑える。まずは一週間を目処に、どこまでいけるか。新聞は見ない(一週間後にまとめて読むか)。テレビはつけない。ラジオは、それはまぁほどほどに(「音」はいいんだ。問題は文字情報だ)。本は、活字の本は一切読まない。これがぼくにとっては未知の世界だ。インターネットも、なるだけ見ない。アウトプットはどんどんやれ、とのことなので、ブログは書いてもいいが、このブログも気がのらない日には書くのを止めるかも。twitterは昨夜のうちに止めた。来週までは見ないことにする。万が一メッセージをもらうようなことがあっても返事はしない。ぼくに必要なのは情報じゃない。いろんなものから目かくし、耳かくしをされているように感じる。ここで、抜け出す。捨てるものは捨てる。どんどん捨てる。いま一度、整理する。ぼくは「みんなと同じになりたい」わけじゃない。というわけで、「断食」開始。本も読めないので、「読む」以外のいろんなことを探す。ちなみに、聞く、書く、話すは幾らでもオーケーなので。



祈り(2011.3.12)
 ご心配のメール&電話をいただいた方々、ありがとうございます。東京は、基本的には無事です。交通機関が麻痺して混乱はしましたが、大多数の人にとっては、「ものが落ちたり倒れたりした」のと「帰れなくなった」くらいの被害、と捉えています。さらに大きな地震がこない限り、身の危険は感じません。(余震はつづいています。少しだけゆるやかになっている感じもします。)
 ただ、関東でも太平洋に近い場所、とくに茨城、千葉など東京以北では停電、断水などで散々な思いをされている場所もあるようです。川崎や横浜でも停電したとか(けっこう近いですね)。
 ぼくも知人の全員の無事を確認できているわけではありません。(意識して騒ぎすぎないようにしています。心のなかは乱れていますが。)
 が、いまはじっとして様子を見守るしかない。もう何だか、祈るだけです。パソコンとテレビ&ラジオ以外の電気をなるだけ使わず、今夜も静かに時間を過ごそうとしています。
 
 (注)「活字の断食」はやむなく中断しています。関東在住の方へは、このブログがいいとみんなで言い合ってます。


東京ラッシュ(2011.3.13)
 昨夜から、余震がぐっと減って、静かになったように感じている。
 ぼくは、金曜の14時46分から… というより、そのあとすぐには地震がどこで起こって、被害がどうなっているのかまったくわからなかったので、正確には国立駅まで辿りついて、情報を得て以来、止まっていた「活字の断食」を、またそろそろ再開しようと思ってる。(ただ、まだ余震の恐れがあるので、情報収拾はつづける。まずはテレビから消す。)
 誰かも言っていたけど、節電というより、「いらない電気は消す」という、日常的なこころがけをするだけ。過剰な反応は何も産みはしない。テレビは地震発生後1日を越して、次第にワイドショー化してきたし(全てがそうとは言わないが)。消そう(もう消してる)。ラジオだけでいい。東京ではティッシュや水を買い込む人たちもいるようだけれど、その必要はない(ここは「被災地」じゃない)。イベントなどの「いたずらな自粛」にもぼくは大反対。やれるものは、やればいい。実際に昨日、実施に踏み切った人たちも知っている。
 被災者になるのと、「被災者面」するのは違う。これが国民性だよ、と言われたらそれまで、だけど。写真は金曜の深夜の、甲州街道。新宿方面。



良い薬(2011.3.14)
 午前中の予定だった停電が行われず。先ほど近くを走ったアナウンスカーによると、「12時半ごろから」になるとか。情報が錯綜していて、何が嘘で何が本当なのかわからなくなっているけど、ぼくは、いつでも来い! という態勢でいる。みんな、出社できないくらいで、おどおどすんなよ! 東京は電車が止まったり電気が止まったりするくらいじゃん。騒ぐなって。と言いつつ、どうしても地震関連情報が気になって、「活字の断食」はやっぱり延期している。
 停電も電車が止まるのも、良い薬だ。パソコンの電源も切って(充電はされているけど)、手を動かそう。これまで思いつかなかったことをやろう。「活字の断食」でやろうとしていたことが、「断食」しなくても、できる。
 いまのぼくにとって、緊急事態は、何の苦でもない。死ななければいい。


現実から目を離してはいけない(2011.3.15)
 今日の一枚。「分倍河原駅の封鎖された改札」か、これか迷って、やっぱりこれにした。近所のスーパーにて。空になった乾麺コーナーの棚。ほかにも、乾電池の棚はどこの店でも空。ぼくが見て回った限り、昨日の夕方の時点で一個も残っていないのを確認している。缶詰は「一個も残ってない」ほどではないけど、ほぼ品切れ。あと、ペットボトル(水など)、パン類、豆腐や納豆、牛乳などが消えている店が多いよう。新聞には鶏肉の発注量も9倍に増えていると書かれているけれど、(鶏だけに絞って見ていないが)肉、魚、野菜などは品薄とはいえ入ってきているので、ぼくはそれを買って食べている(ぼくは「買いだめ」などしない。なければないで節約できるし、そのほうが被災地への些細な貢献にもなる。みんな情報を調べているようで、調べていない。情報に踊らされているだけだ。でもこれが東京の現実。)
 あと書き出せばきりがない。コンビニでも同じ状況。ただし、緊急事態に重宝すると思われるお菓子類(チョコレートやスナック類)が売れ残っているのが不思議。
 分倍河原駅でも、南武線が止まっている模様(止まってない?)。京王は夕方から止まる。



停電の夕方(2011.3.16)
 計画停電、今日の府中市は15時20分から19時の間の3時間ということだったが、15時30分ごろにバタッと電気が切れて、防災無線で停電の知らせが流れた(停電したあとで聞こえた)。
 停電したてのころは書きものなどをつづけていたが、やがて暗くなり手元も見えなくなり、何もできないので、ボイスレコーダー(電池で動く)で音楽を聴きながら部屋で、まぁダンスなどして(細かいことはおいといて)いたら18時20分ごろに電気が復旧した。
 左の写真は、停電中の町並。停電になると困ることも多いけど、節電に励む街を見ていて思うのは、「いつもこれくらいでいいんじゃないの?」ってことではないかしら。原発のことだけでなく、いまは、自分たちの日常を見直し、考え直す大きな機会なのかもしれない。あと、「アフリカン・スクラップ・ブック」でもリンクしておいたけど、災害支援の一例として、広瀬敏通さんらの活動に、ぜひご注目ください。


「不謹慎」って何(2011.3.17)
 「不謹慎」という言葉が出回っている。
 府中は今日もまたこれから停電に入る予定。ぼくは地震後はじめて電車に乗る。仕事なので仕方ない。というか、誰かに会って話がしたい気分でもあって。


叫ぶ前に、沈黙を(2011.3.18)
 今日は午前中に停電して、また夕方から停電の予定だと聞いていた。なので、夕方からは外出して、一週間ぶりに長い散歩をしてきた。が、暗くなって戻っても、町や店から明かりが消えていないので、聞いたら、今日二度目の停電は回避されたと。
 街角に並んで「ボキン」を楽しそうに叫んでいる学生たちを見て、ぼくはなぜか嫌な気分になった。ぼくは学生のころ、あのようなことには参加できなかったし、いまでも、しない。被災地に送るお金とは、具体的にはどこに、どのように送って、どのように使われたいと思っているのか、まったく語ろうとしない彼らの姿を見ながら(無邪気といえば無邪気だ)、大事なのはそれじゃない、と思う。 
 叫ぶ前に、沈黙を。
 ぼくはこの事態を「お祭り」にしたくないのだろう。


きびなごの刺身(2011.3.19)
 何をするにもやる気が出ない。いや、やる気はあるのだけれど、不思議な無力感。今日も夕方に長く揺れた。ぼくは散歩中だった。府中駅前の建物のなかにいて(あそこは2階か3階か)、すぐに逃げ出したくなるような揺れではなかったけれど、怖いというより、気持ち悪いという感じの揺れ。散歩したら、気分が少し晴れるような気がする。救われるような気がする。
 そういえば、小川国夫さんは『青銅時代』創刊号と私家版『アポロンの島』刊行から、ずっと10年間くらい(30代の、ですよね)は、ひとりで孤独に書いていたんだった。よく、もったもんだよね(精神が)。他人事じゃないけど。ぼくは小川さんほど徹底してないな。時代のせいもあるかな。
 府中駅前の魚屋で、きびなごの刺身が売っていたのを見つけて、嬉しくてつい買ってしまった(写真、下のほう)。醤油か、酢味噌につけて食べる。鹿児島の、故郷の味だ。で、久しぶりに焼酎が呑みたくなったので、今夜はきびなごの刺身でイッパイやっている。


山下達郎さんの「鎮魂プログラム」(2011.3.20)
 地震で、はじめて放送が休止になって、一週間。「サンデー・ソングブック」を聴いた。久しぶりに力が入った。いきなり、CMなしのスタート。山下達郎さんはお母さんの出身が仙台で、親戚も多いそうだけれど、みんな無事とのこと。ただ、東北にもこの番組の「常連さん」たちがたくさんいるし、避難所生活を強いられている方、もしかしたら亡くなった方もいらっしゃるかもしれない。そう思うと、何と言っていいか、わからない。「重苦しい雰囲気を、少しでも和らげることができればと思って選曲しました。小さなラジオでも良い音で聴けるように、今回はいつもと違うデジタル処理を施しています。ただ電波の状態次第ではどうなるかわからない、でも、この気持ちだけ汲んでやってください。それでは…」と言って、達郎さん自身の「希望という名の光」でスタート。ジャックスカード(スポンサー)の「粋なはからい」で、55分、CMなし、お喋りもほとんどナシの、ノンストップで。フランク・シナトラ、ハウスマーティンズ、ウォルター・ホーキンス、ポール・ウィリアムスなど全10曲。息をのんで、聴いていた。


自分事(2011.3.21)
 地震から10日。まだ10日なのか…というのが個人的な感想だけれど、皆さんはどう?
 数日前に、街で募金の呼びかけをしている人たちのことを書いたのを読み直してみたら、ちょっと、何を書こうとしたのかわからない感じだけど、ようするに「わけもわからず」というのが嫌なのかなぁ。「型通りにやればいいだろ~が」という投げやりな感じもあって(そっちかな)。 
 身近なところから、やればどうかなぁ。たとえば、自分なら…と考えてみて…。東北にいる吃音の人たちで、困っている人たちがいれば、そこに何かできることはないか、とか。
 「全体を全体で支える」という考え方には、無理があるとぼくは思う。個々が、それぞれの現場で、それぞれの現場に近い人たちを支える。支え合う。それなら、ぼくもピンとくる。そういう「仕事」なら、たしかに、一生やれると思うし。


今週末で(2011.3.22)
 今日は昼ごろから同じ第2グループ内が停電になっているという情報は入ってきていたが、ここは停電せず。その後も停電していない。 
 中井久夫『世に潜む患者』(ちくま学芸文庫)、まったく他人事とは思えない内容が多くて、(この多くが1980年代に書かれたことを考えると)驚きつつ読んでいる。
 ぼくは今度の週末で、ここへ引っ越してきて一周年になる。こういう話になると、すぐ「早いね」と言い出す人がいるが(自分もついそう言ってしまうことがある)、そんなことはない。一年という時間が、こんなに長く感じたことはなかった。


エル・アナツイと葉山の海(2011.3.23)
 今日は朝早くに出て、葉山へ。逗子駅に降りて、一度来たことがあるのを思い出した。人に連れられて行く経験は、自分の頭で行っていないので忘れている。3年前かな。もちろんぼくはまだ大阪にいて、会社員だった。5月の連休を使って来たのだったか。
 今日の目的地は、その逗子駅から海岸線をバスで20分ほど走った場所にある、神奈川県立美術館の葉山館。『エル・アナツイのアフリカ』というのを、ずっとみたかった。で、昨夜、いよいよ行こうと決めて。会期が今週末までに迫っている。しかも「計画停電」で常に入れるとは限らない、という悪条件。昼すぎから停電になる予定だったが、でも今日はその地域の停電が回避になって。アナツイの作品の数々をみたあとにも、無料開放されている図書室で、かなり長時間、過ごすことができた。
 バスの窓からも、展示室の窓からも、大きな海が見えた。帰る前に美術館の周辺を散歩して、海まで出て行った。この写真はその海へ抜ける小道。



あの海の音の余韻(2011.3.24)
 今夜は、先ほど、「アフリカン・スクラップ・ブック」を更新。みてきたばかりのエル・アナツイの個展と、大瀧詠一さんの本の話を書いた。 
 今朝も、大きめの揺れがあった。テレビのなかでは、「春の甲子園」がはじまった。


アフリカ・セッションno.11(2011.3.25)
 今日の午後は、ちょっと息抜き(?)を兼ねて、『アフリカ』第11号の「仕事」をはじめる(まだはじめてない。これから)。18時から22時にかけて停電になるらしいけど、ぼくは今夜は府中を離れて違うグループ圏内に入る予定なので、停電は関係ない。出かける前に、少しでも進めよう。


あの日から一年(2011.3.26)
 ちょうど一年前の今日、その日までぼくが住んでいた部屋から見た桜。あれから一年だ。ここへ引っ越してきてからは、明日で丸一年。いろいろあったけど、何とか生きている。


大國魂神社の枝垂(2011.3.27)
 一年前の3/26は金曜日で。夕方に大阪の部屋を引き渡して。夜はそれまでの毎週・金曜と同じように大阪吃音教室に出て。みんなといつものように過ごして、深夜のバスに乗った。バス停まで送ってくれた仲間がいて。何だか懐かしく思い出す。
 そして3/27の朝。新宿駅到着が、かなり早い時間で。荷物の到着まで、かなり時間があった。ひとまず京王に乗って府中へ向かったが、その日から住む部屋の最寄り駅である分倍河原駅へ行く前に、府中駅でいったん降りて、大国魂神社へ寄った。境内には見事な枝垂れ桜があって、迎えてくれた。凍えるような寒い朝で。(この写真は、その一年前の朝。)


 あれから、一年。ぼくはとにかく環境を変えたかったのだったが… ひとまずそれは成功だった。見知った、慣れた環境では、こうはいかなかったかもしれない。とにかくぼくは逃げたかったのだ。逃げて良かった。とは思っている。


彼方への道(2011.3.28)
 昨日は夕方から三鷹で約束があって出かけた。その前に、大国魂神社へ寄った。一年前に満開だった枝垂れ桜は、今年はまだ咲いていなかった。何だか寒いものね。迷いまくってゴールのない迷路みたいになっているぼくの話を聴いてくださる人には感謝。
 今年は桜の話題を耳にすることが、ほとんどない。


また動き出す(2011.3.29)
 散歩はつづけている。2時間くらいは平気で歩く。たいていは、夕方に。夜になるときもあるけれど。この写真は昨日の夕陽。
 ぼくはまたこれから新しいことをやる。新しくはじめるというのは、いつでも新鮮で。それがたくさん味わえるというのは、よく考えたら、ラッキーなのかも。そう考えることにしよう。



絶望を語る言葉(2011.3.30)
 一見、不要ではないかと思える大きなストレスに、悩まされることがぼくは多い。すぐに眠れなくなったり、アルコールに「走」ったりする。自分はそういう人なんだ。と、知っておくだけでも、随分、違うと思うよ。


あたたかさ(2011.3.31)
 昨夜は、ある方と約束していて、「古本GALLERY673ひらいし」へ。日替わりマスターでカウンターに立っていた三五十五さんとも長くお話できて、なんだかとにかくいろんな方とお会いして。そのあと、田保さんのバー「246」(「にょろ」と読みます)へも流れて。久しぶりの「徹夜コース」と相成った(昨年の秋以来かな)。怒濤のような「声」にまみれて飲んで、なんだか妙に、元気をもらった気がする。

2015年2月21日土曜日

【イベント】絵本『からすのチーズ』出版記念・しむらまさと個展「鳥たちと」と「トーク」のこと

 私は、なんであれ、“書くべき”だということは受け入れられない。(ナディン・ゴーディマ「むかし、あるところに」)

 絵本『からすのチーズ』の出版を記念して、ということらしい──しむらまさと個展「鳥たちと」を開催します。…江古田のパン屋さん&ギャラリー「vieill」、祐天寺の「祐天寺カフェ」という、『からすのチーズ』の著者に縁のあるふたつの場所の、いわばご好意で、開催する運びとなりました。展示されるのは、しむらまさと君がこれまで描いてきた油絵を中心にした作品群です。描きはじめたころの作品から、最近の作品まで、そしてもしかしたら最新作も? という予定です。

 そこで、昨年末から念願(?)だった、しむらまさとインタビューもついでにやってしまおう! という計画をたてました。それが、3.21の「トーク」です。

 情報は『からすのチーズ』スペシャル・サイトの「News」にのせています。ここでは、その内容について少し書きましょう。


 ね? 見事に「鳥の絵」ばっかりでしょう? もちろん「鳥の絵」以外の作品もイロイロあるのですが、絵本『からすのチーズ』との関連もあり、またほんとうに彼の作品には「鳥の絵」が多いので、この機会に「鳥の絵」をまとめて展示してみるというのは、ただ漠然と作品展をやるより面白い気がしています。

 そして「トーク」ですが、もちろん、しむら君(なんて他人行儀な感じがむずがゆいので、普段呼んでいるとおり「まーちゃん」と呼ぼう)と話します。題して、「しむらまさとの世界」──と、おおきく出てみました。どうなるか…

 何度もお伝えしているとおり、彼は、知的障害、自閉症と呼ばれる障害のある青年です。本人によると「大人になりたくない」そうなので、「青年」と表現すると怒られるかな?(笑)

 ぼくは、彼とは、NPO法人風雷社中のスタッフとして、彼の「支援者」として出会いましたが、いまでは、いわば「家族ぐるみ」の付き合いになっています。そして、いまでもぼくは彼の「支援」をすることがあります(とはいえ、同時にぼくも彼に「支援」されている感触があります──そんな話も「トーク」で出来るかもしれませんね)。

 彼の家には、いろんな人がやってきます(ぼくもそのひとり)。彼に会いたくて来ているとも言えるし、彼の母に会いたくて来ている、とも言えそう。

 それくらい、彼の母は、おもしろい人です、慕っている人もたくさんいるようです(本人によると「ただのお母さん」らしいですが… だから尚更? いやみんなそうは思っていなかったりして…)。でも、いつもスポット・ライトを浴びているのは、まーちゃんだ。そりゃあ、彼は「障害者」だからねー、特別だよ、なんて意地悪(?)も言えるかもしれません。

 ただ、あの母がいるだけでは、彼のような人はできあがらないという気もする。それくらい、彼というひとりの人のなかには、たくさんの人の存在が感じられます。彼の絵からも、その「たくさんの(何ものか)の存在」が感じられるかもしれない。

 さて、ところで、そんなことを言っておきながら、ぼくはまーちゃんと、じっくりお互いの話をしたことがありません。彼と、だけではないかもしれませんね。普段つきあいのある多くの人と、じっくりお互いの話をするなんて機会はない気がする。たまに顔を合わせると、ついバカ話に花を咲かせてしまって、気づいたら、もう行かなきゃ、なんて。

 なので、一度、じっくり話してみたい。こちらからの一方的なリクエストではありますが… そこは、お願いして。ちなみに、「どんな話になるか」どころか、「どんなふうに話されるのか」すら自分にも予想がついていません。ぼくは、自分の「話す」という行為そのものを問い直さなければならなくなるかもしれない。でも、思い描くだけで、なんか、わくわくするな。

 で、何を聞くの? ってことですけれど、もちろん「絵の話」が中心です。まちがっても福祉サービスの話じゃないよ(笑)。「障害者」だから特別、と思って『からすのチーズ』をつくったのではないし、じつはもっと「障害福祉」からは離れた(と人からは思われるような)話もしたいんです。

 「絵の話」なので、今回は、自分だけでは心もとないと思って、ゲストをお呼びしています。

 『アフリカ』最新号に載っている「ことばのワークショップ」にも登場している「アトリエ」の先生で、「画家」の秋山豊之さん。
 美術にかんするプロフェッショナルで、かつ、ことばでのふかいコミニュケーションがとれる人──この人に来てほしい、と思って一番に声かけたのですが、こころよく引き受けてくださって、ありがとうございます。


 これはアトリエで子どもが描いた絵を写真に撮って勝手に拝借しました(ごめん&ありがとう)。よく描けてる(笑)。とりあえず「画家」と紹介しましたけど、じつはその肩書きをどうするか少し迷いました。絵を描いている人はみんな「画家」ですからね。人っていうのはもっと多面的で、奥行きのあるものなので、全員に言えるのですけど、秋山さんはとくになんと言えばいいかよくわからない(笑)。ご本人によると「ふつーの人かな。あれ? ふつーじゃないか? ま、画家でいいです」とのこと。

 まーちゃんと、秋山さんが出会う、という機会をつくれるだけでも、ぼくはわくわくしています。

 「障害者」の話からも、まーちゃんの生活圏内(ぼくにとっては仕事の現場である街)からも少しだけ離れ、どんな話ができるか、とっても楽しみにしています。で、これから準備をしますが、「何をどう訊くか」を考えるだけでも、自分にはとても大きな仕事になる気がして、あなたなら何をどう訊く? なんて話して回るかもしれません。(そんなぼくの話も)あたたかく聞いてやってください。

2015年2月18日水曜日

日常生活のなかに潜む「差別」にかんする、現実と、想像力

 差別をなくそうというのは難しい。空気をなくそうというのに近い。差別している人は自分が差別しているとは思っていない。それからたとえば「障害者」だの「健常者」だの「男」だの「女」だのと言ってる時点で差別しているわけなので、正確に言うと「不要な差別はなくそう」ということ。

 その不要なというのがまた難しい。差別している人は、自分が差別しているとは思ってないくせに、それが不要だとは思っていない。やっかいだ。

 なぁんて、昨日の昼ごろ、ぼそぼそ言っていたら、ある人から、なんて分かりやすい「やっかい」の説明! と言われた。

 差別するなと言う人が、言ってるそばからべつのことで人を差別していたりする(自分が差別しているとは思っていない)。人っておもしろい。人ってそういうおかしなところがあるもんなんだと思っておいたほうがよさそうです。純粋に差別をなくすのは難しい(不可能と言ってもいい)けれど、ただ、そのことを考えるうえで「差別」ということばに安住するのを止めることは割と簡単にできそう。意識さえすれば。

  *

 じつはいま、ナディン・ゴーディマの短編集(昨年、岩波から出ていた『ジャンプ』というタイトルの文庫本)に夢中で。
 ナディン・ゴーディマ──南アフリカの作家で。昨年亡くなっていたんですね、90歳、眠っていて亡くなったとか(まさに大往生!)。ぼくは『アフリカ』をはじめる直前に、彼女の『現代アフリカの文学』を読んで、いろいろ思うところがあって、心の隅っこにはいつもゴーディマがいましたけど、「小説」を読むのは今回がはじめて(ムリに読もうとしない人なんです、そのときが来るまで待つ!)。
 最近、曾野綾子さんが産経に書いた記事が話題(すごーく悪い意味で)になっていますけど、曾野さんが持ち出してきたアパルトヘイトにたいして、ゴーディマは批判的な立場をとりながら、ずっとその内側にいて(つまりアパルトヘイト制度下の南アフリカ国内にいつづけて)人びとの日常生活のなかに根付いている差別や偏見が、具体的にどのようなものか、書いた。また、短編集『ジャンプ』では、アパルトヘイトがとかれていくなかに起こった、人びとの動揺や混乱といったことがどうだったか、いろんな人たちをとおして見せてくれる。やっぱりこういう「人びとの現実」は、こういうスタイルの文章(──小説というか)でないと描き得ないかもしれないね…。と、つくづく感じられる素晴らしい作品集です。

 曾野綾子さんの記事については、南アフリカ在住の吉村峰子さんという方が詳細に書いてくれていて、インターネット上では話題になっています。参考までに、これ。感情の抑制をきかせて、現実をよく考察し、想像力を行き渡らせた、素晴らしい文章の見本のような文章です。参考までに、なんて偉そうに言いましたけど、ぜひご覧ください。

 ついでに、最近、はじめて見たナディン・ゴーディマの写真の数々、ほんとうに、うつくしい人というか。これは見た目の〈美人〉というだけじゃないです。こらえきれず、こぼれてしまう〈美人〉という感じ(そんなところで褒めすぎ?)。いや、ぼくの心のなかでは、ずっとうつくしい人でいましたけれどね。おばあちゃんになっても、いつまでも。


 そして、少しずつ、少しずつ彼女の書き残したものを読みながら、じわ、じわと自分のなかに力がわいてくるのを感じる。──『現代アフリカの文学』に書かれている「〈参加〉の文学」というのを、少し読み返して、見返してみていた。文学作品とは政治につかわれる道具であると言っているのではない。くり返し言うと、〈参加〉の文学、と言っている。(今日のところはここでブツッと切ります。つづきはまた後日。)

2015年2月11日水曜日

新しい地図

 何もないように見える場所も、ある人にとっては豊かな場所に見えるかもしれない。一つの中央ではなく、無数の中央へ向かうことによって、見慣れた場所が未知のフィールドに変化する。(石川直樹)

 今月は、こちらの「自由時間」のほうで、いろいろ書きます。『アフリカ』の最新号(第23号=2015年1月号)のことや、イベントの告知なども書きますので、見てネ。
 というわけで、字数制限を外して、書きたい放題やろうというわけ。
 べつにこうやって「ブログ」というかたちで「発信」しなくてもいいじゃないか、という声もあるかもしれないが、宣伝や告知などお伝えしたいことがあるし、でもお伝えしたいことだけをお伝えするというのは、自分にはけっこう難しくて、いろいろ書いて、その延長でお伝えするというのが自然なような気がして。

 ちょっとこんな話から。

 この社会は、どうやら、どんどん暗い時代に突き進んでいるようです。不況とか、貧しいとか、そんな悠長なことを言っていられない時代が、もう来ているみたい。
 先日、テロリストの捕虜になっていたふたりが人質になり(おそらく日本政府は彼らを見殺しにして、まぁ偶然生きて戻ったらラッキーくらいにしか思っていなくて、その結果…)むごいやり方で殺害されるという一連のニュースが流れました。
 ただ、そのことを、ここで、いろいろ書くのは、止めましょう。ぼくは新聞やテレビではなく(彼らは起こっている大事なことの多くを伝えてくれなくなっています、だから…)SNSを通して、複数の取材者や専門家がいろいろ調べて、教えてくれることを、眺めて、考えているだけです。
 ずっと眺めていて、言えそうなことは、日本政府はどうやら「戦争」へ向かって突き進んでいること(ただ、現代の「戦争」のかたちにはイロイロあるようですが)。
 太平洋戦争へ突き進んだころの日本が似たような状況にあり、身の丈を超えた「経済政策」が大きな闇を抱えていたということ、それは、ちょうどいまの状況に似ているというくらいのことも言えそうです。
 昨年、桑原甲子雄さんの写真展をみに行ったときに、太平洋戦争直前の、東京の街がえらい明るくて、いまと変わんないなー、と思ったのをふと思い出します。
 ぼくはテロリストもこわいけど、日本の首相(と彼を裏で動かしている人たち)もこわいです。自分の住んでいる国の首相(とお仲間たち)だから。そして彼らが発する「ことば」の、上っ面な感じ、中味のない感じは、ただ身近にもたくさん存在しているような気がして、それにも強い危機感をもっています。前々から、ずっともっていたことです。

 で、どうする? って言ったって、時代に翻弄されて生きていくしかなさそう。歌は世につれ、世は歌につれ、というけど、何を言ってるんだ、世は歌につれない、いつも歌が世につれ、なんだ、という話をよく山下達郎さんがしてらっしゃいますけど。ぼくは、光海と、彼がこれから出会う、たくさんの仲間たちが心配です。


 そういえば、石川直樹さんの写真展に行ってきました。横浜市民ギャラリーあざみ野で、22日まで、やっています。無料でみられます。タイトルは、「New Map」。新しい地図、です(写真は、限定部数で来場者に配布されている折り込み地図ふうのパンフレット)。インド、ポリネシア、北極、南極、富士山、エベレスト、そして日本周辺のたくさんの島々… 石川さんの写真の仕事の全体像(?)を眺められるような展示になっています。ぼくは、彼の発表する「ことば」には、ちょっと理屈っぽいような(人のこたぁ言えないか?)コマーシャルっぽいような部分も感じていますが、なにはともあれ「写真」を、大きなプリントでじっくり見たい。いい機会です。じっくり見ていると、政治と経済と、戦争に明け暮れている人びとが、バカバカしく、遠い世界のように思えてきます。そしてそれに巻き込まれる無数の人びとの、悲痛な空しさ… でも、ぼくがもっとも感心するのは、人も生き物で、死ぬときはいとも簡単に死んでしまうものなのだ、ということ。殺し、殺されなくても、自然のなかの極限の状況では、人は容易には生きていくことができない… ただ、ぼくも、あなたも、みーんな死ぬまで生きるしかないわけですけど… (唐突に感じるかもしれませんが)「地面」って、おおきなもんですね! 石川さんの写真をずっと見ていて、なんだか「地面」をつよく感じて。なぜか「地面」について考えたり、思いを馳せたりしています。

2015年1月12日月曜日

【特集】しむらまさと絵本『からすのチーズ』(アフリカキカク・2014)

 幼い心に笑いをよびおこしたり、高まりを感じさせたり、あるいは、体ぐるみ自由に動きまわらせてやることのできる物語を創ることは、意図的にはできないことのように思われます。(渡辺茂男)

 2015年になって、もう半月近くがたとうとしています。「道草のススメ」では元旦にご挨拶しましたが、あらためて、あけましておめでとうございます。今年も、また、よろしくお願いします。

 年末には、バタバタしていて、絵本『からすのチーズ』の詳しいご紹介も、できないままでした。そうこうしているうちに『アフリカ』最新号(第24号/2015年1月号)も完成して、珈琲焙煎舎での販売も開始しています。

 昨年の我が家は、光海の誕生と、彼(赤ん坊)との新たな日々に必死で、それ以外のことはよく覚えていない… というと大げさですけど、まぁそう言いたくなるような年でした。毎日、元気です。


 で、なにはともあれ、昨年のさいごの数ヶ月は『からすのチーズ』と共にありました。とはいえ、これから、末永く読み継がれる本になりますように。出版をする人としての本当の「仕事」は、これから、です。


 著者と、絵本(左)、そして初回限定版(スペシャル・セット)についている「ぬりえ&原画集」(右)、これは完成品が到着した直後の写真で、どうです? この顔!


 ニシダ印刷製本から届いた、できたてホヤホヤの絵本をもって、著者も出演するゴスペルクワイアCHOUB(シューブ)のクリスマス・コンサートへ行き、「先行販売」したのでした。お買い上げいただいた皆様、ほんとうにありがとうございます。こどもたちが集ってきて、手にとって読んでいる場面が、なんだか忘れられません。最近、ぼくは本を売る本当の現場からは遠のいていたような気がしました。嬉しいものですね。

 雑誌とちがって、これは、あるていど長い時間をかけて(細々と?)売っていこうと思います。どう売っていくかは、目下、画策中。細かい事情を書きたいところですけど、本を買い、読む人には、ある意味では関係のない話なので今回は省略。

 そんなことより、絵本『からすのチーズ』の紹介を!(何それ? という方は、スペシャル・サイトからご覧くださいネ。)


 かわいいサイズです。A5ヨコ。まー、何の変哲もない(?)無線綴じのソフト・カバーですが… これ、じつはかなり考えた結果で。書店の絵本コーナーに行くと、何とも重たい本ばっかりなんですね! いまの日本の書店に限った話かもしれません。本の「保存」に重きが置かれているんでしょう。「読む」ことには、「保存」に比べたら重きが置かれていないというのがよくわかります。本が売れないと嘆きつづけて早ウン十年の業界が、「読む」より「保存」に大きな力をかけて本づくりをしている、これ滑稽な気もしますよワタクシは。それは絵本に限らない話でしょうけど、絵本の造本にすごくよく現れていると思いました。今回、絵本をつくろうとして絵本の勉強をした結果、やってきた気づき、でした。


 とはいえ、海外には軽い造本の絵本もたくさんあります。あの『はらぺこあおむし』だって、日本で売られている本は重たいハードカバーの本ですが、素晴らしくセンスがよくて軽い造本の英語版をみつけました。『からすのチーズ』と同じサイズで、やわらかい表紙の絵本もうちにはいくつかありました。日本にも、以前は軽い絵本がたくさん存在していた模様で、古本屋に行くとイロイロ勉強になります。いまみたいに重たい絵本ばかり売り出したのはいつ頃かな? やっぱりバブルの時代かなぁ。もしそうなら、お金があって良かったこともイロイロあるでしょうけど、これは良くなかったことに挙げたい。


 本のなかのほうはですね、事前にはあんまり見せたくないよねー、と言いながらつくっていました。なので、ここでも、まだもったいぶります。今回の絵本の「顔」として最初から登場してもらっていた「チーズをくわえて飛ぶからす」のページは、こんな感じ。

 著者のしむらまさと君、えんぴつによる原画だけじゃなくて、物語と、この文字もすべて彼の手によるものです。知的障害とか自閉症とかと呼ばれる障害のある彼ですが、へー、彼には「世界」がこう見えているのかー、ということが垣間見える一作、と言ってもよさそうな気がしています。

 でも、そんな距離をおいた見方は、じつはあんまりしていない、普段は。この絵本は、じつは出版者であり編集者であるぼく自身にも、何度も何度も問いかけてくる本です。

 『イソップ童話』に、からすときつねの話があり、その話を、しむらまさと流に読み取った、とも言えそうな気がしますが、彼にはそんな気はないかも? 彼には、これこそが『からすときつね』なのかもしれないし…

 でも、いまに伝わる『イソップ童話』とは、何か決定的な部分がちがいます。さ、それは何でしょう? それは経済の問題にもつながるし、文学の問題ともつながるし、もちろん福祉の問題ともつながるし、じつは、何にだってつながっているのだ、と思いながらつくり、できてからも、我が子に読み聞かせながら、たまに思っています。(10ヶ月歳の光海には、そんなこと言われても、かあかあ、でしょうけど、笑。)


 初回限定版(スペシャル・セット)のグッズは、こんな感じ。バッジ2種(「からす」と「おひさま」)、ポストカード5種(絵本のなかの絵4枚に著者の写真1枚)、ありがとうカード1枚(「これが力作なんだ」byしむら母)。それから…


 アフリカキカク得意のモノクロ冊子「ぬりえ&原画集」、これが貴重な一冊なんです。装丁は、雑誌『アフリカ』のエッセイ漫画でお馴染みの高城青。編集・ページデザイン・その他雑用は絵本と同様に下窪で、短い解説も書いてます。


 絵本は、著者がえんぴつで書いた絵を使って、色をつけてつくっているのですが、ここに載せたのは、原画および制作途中のデータ。後半のページは「ぬりえ」としても使えるようになっています。もちろん「ぬりえ」をしなくても、ある種の「資料」として貴重なものになると思っています。

 何はともあれ、絵が、いいんです。障害者の描いた… とか関係ないよ。ぜひご覧いただきたいと思っています。

(ただし、スペシャル・セットは、残部が少なくなってきていますので、ぜひ欲しいという方はお早めに!)
 

 というわけで、よろしくねー。(写真は、「先行販売」のブースにて、ピエロのようへい君とまさと君のツーショット!)

 ところで、光海との日々や、『からすのチーズ』を通して、絵本にすごく興味が深まってしまって、いろいろ読んでます。本屋に行っても絵本コーナーはチェックするようになってます。少し前まで考えられなかったことですけど、笑。


 そうこうしていたら、光海へのクリスマス・プレゼントがぼくの実家の母から届き、なんと! ぼくが幼いころ夢中で読んだ二冊の絵本が! どちらも「わたなべしげお」さん作の絵本です。『しょうぼうじどうしゃ じぷた』は、ずっと忘れてなかった、心のなかにしまってありました。現物は読みすぎてページがはがれ、痛んでいたようですが、今回、両親がきれいに整えてくれました(色が素晴らしいです、これ今の印刷では出せないかも?)。「くまたくん」の『ぼくまいごになったんだ』は、忘れていましたが、見た瞬間にわかりました、数十年ぶりの再会です。なつかしい。

 それから、このお正月には、それら絵本の作者・渡辺茂男さんのエッセイ集『心に緑の種をまく』(新潮文庫)との嬉しい出会いもありました。

 彼の絵本の子だったぼくが、大人になり、ふたたび絵本の世界に帰ってきました。

 ぼくの本づくりの、今後に、すごく大きな光を投げかけてくれています。

2014年12月30日火曜日

〈からす〉の共演

 ことばとは、行動である。(スタニスラフスキー)

 こちらの更新が滞っていました。2014年も明日まで、という12/30の夜に書いています。ぼくは今日がいちおう仕事納めでした。「いちおう」というのは、今年もまた残してしまった宿題がイロイロあるから… 年末はあまりの多忙さに年賀状にもまったく手がつけられていない状況で、この際、開き直って、お正月の挨拶ではなく、お正月の様子を知らせる媒体にすれば面白いんじゃない? なんて思いついているところです。まー、ようは言い訳です。


 いろいろお伝えしてきたとおり(詳しくは「道草の家・ことのは山房」のサイトをご覧ください)、この12月、絵本『からすのチーズ』を無事に発売することができました。どんな本なの? をじっくり書く暇もなく、ここまで過ごしてしまいました。

 が、おかげさまで、発売から半月、予想を超えるたくさんの反響があり、ご愛読いただいている皆様へは心から感謝、です。素晴らしい作品だという確信はあるのですが、ぼくがよいと思うものが多くの人に受け容れられるかというと… 正直、不安が大きくて。
 でもふたを開けてみると… ぼくが夏にこの作品を「発見」したときの感触は、読む人にはしっかり伝わっているという気がしています。
 制作にかんする経緯は、数日前に完成したばかり(定期購読の皆様へは発送中、もうそろそろつくころかな?)『アフリカ』第24号(2015年1月号)に少し書いています。
 12/13に、『からすのチーズ』を先行販売したときに、販売ブースに子どもたちがやってきて、絵本を手にとって楽しそうにしているのを見て、なんかね、涙が出そうでした。しかしね、じつはこの絵本、大人が読んでもすごくいいです。大人にこそ読んでほしい、という気すらしています。

 スペシャル・セットは、みんな買ってくださっているので、もしかしたら売り切れが近いかも。欲しいと思っている方は、ぜひお急ぎください。

 今年は、いろんな意味で、とてもとても大きな飛躍の一年になったかもしれません。ま、そんなことや、あんなことも、年が変わってから、ゆっくり書くことにいたしましょう。いやー、今年もつかれたなー。お正月くらい、少しはのんびりしようと思います。今月、また毎日書いている「道草のススメ」は、1月もつづきます。『アフリカ』は1月号だものね。「プロモーション」と称して今回はもうひと月、書きます。

 来年もひきつづき、よろしくお願いします。よいお年を。

2014年10月24日金曜日

【お知らせ】しむらまさと絵本『からすのチーズ』──12月発売予定!

 表現したいことがある人のまわりには、かならず小さなマーケットがある。(ビル・アトキンソン)

 秋もしだいに深まってきました。いかがお過ごしでしょうか。

 このブログの前回の更新分(9月末)の最後で、こんなことを書きました。

 10月は、またいろいろと新しい動きがあると思います。ここで発表することもいくつかありそう。どうぞお楽しみに。というか、自分も楽しみです。

 なんとも、もったいぶった書き方になっておりましたけど、話が具体的に動き出して、スペシャル・サイトなるものをつくったので、お知らせします。

 題して、「しむらまさと絵本『からすのチーズ』スペシャル・サイト


 ウェブ・デザインは借り物みたい(?)ですが、中身はホンモノです。

 「アフリカキカク」を、雑誌『アフリカ』だけでなくて、「ちいさな本」をつくり「らしい」感じでお届けしていく出版レーベルにしていこう、という計画は以前からありました。
 この数年、「これを本にしたい」と思えるものが、ぼくの回りに、「アフリカキカク」のまわりに、次々と現れていたから。
 ただ、日々の仕事や、『アフリカ』に追われて、なかなか手が回らなくて。

 そんなある日、数ヶ月前だったか、「外出支援」の仕事で大田区へ行ったときに、あるファイルを出してきて、「これ、本にならないかなぁ」ってつぶやいた方がいて、それがしむらまさと君のお母さんでした。

 彼は今年になってから、ひとりで(いちおうぼくが「支援者」としてついてはおりましたけど)道草の家へ泊まりに来たこともありました。しむら家と道草の家とは、公私を超えた付き合いです──という前に、しむら家は仕事云々を超えていろんな人が出入りしてご飯を食べたり、お喋りしたりしている、街のなかにひっそり存在する「森のイスキア」のような場所(言いすぎたかな)で、ぼくはそこに出入りしているひとりなんですね。

 で、ぼくはそんなファイルが存在することを、そのときはじめて知って、「やりましょう!」と。なにより、そこに書かれている「絵本」が、いかにもまさと君らしい、爽快な内容だったから、というのが大きかった。イソップ童話の教訓めいた話を爽やかに吹き飛ばす、シンプルないい作品です。

 今回、「アフリカキカク」の本としてつくりますが、きっかけとなったファイルをつくったのも、絵本のデザインを行うのも、著者が参加する「ワークショップノコノコ」の荻野夕奈さん。じつはぼくは荻野さんの展覧会にも足を運んで、ずっと注目していたので、今回のコラボレーションの実現を楽しみにしていました。

 じゃあ下窪俊哉は何をするの? って話ですけど、プロデューサーというか、雑用全般というか。
 出版レーベル「アフリカキカク」は、自分の作品とか、『アフリカ』の作品を本にしたいだけのものではないので(それもやると思うケド)、しむらまさと君の絵本が最初の本になるのは、全然おかしいことじゃないし、むしろふさわしい、自然な流れだと思っています。

 詳細はこれから徐々に出していきますけど、価格は1000円(前後)を予定していて、コンサート会場とか、珈琲屋、パン屋など、また本屋以外の場所で売るのがメインになりそう(あくまでも予定)。もちろんネット販売もする予定です。

 ひとまず第一報まで! ぜひご期待ください。

2014年9月30日火曜日

生存報告(2014年9月)

 われわれがほかの人びとに与えることのできる最大の名誉のひとつは、その人をあるがままの姿で見ることだ。(シヴァ・ナイポール)

 また少し間が空いてしまいました。いかがお過ごしでしょうか。もうすぐ10月になりそうなので、その前に、少しだけおお蔵入り(?)しそうな写真をアップしておきましょう。道草の家の我々を普段から応援してくださっている皆さまへ向けた近況報告?


 『アフリカ』第23号(2014年8月号)をお買い求めいただいた皆さま、買ってはいないけど某所で読んだよ! という皆さま、雑誌を手にとってご覧くださった、すべての方々へ感謝、です。ただもう少し残っているはずです。ぼくの手元には、残り10数冊。アフリカキカクの拠点である珈琲焙煎舎(府中市)と、高城青の手元にも少しは残っているはずです。もう少し買えるところを増やしてよ! という声もいただいておりますが、面倒な雑誌で、本当に気に入ったところがないと行かないそうです。気長にお待ちください。諦めたころに、え? という展開があるカモ?


 珈琲焙煎舎は、もうすぐ3歳の誕生日を迎えます。この人が3歳じゃないよ(え? わかってる?)。店主、いつもありがとう。3年、つづける、しかも当初のコンセプト(やら何やらイロイロサマザマなこと)からブレずに頑固につづける、というのは、けっこうたいへんなことだ、とぼくは思ってます。この3年のアフリカキカクは、珈琲焙煎舎なしでは考えられませんでした(もともとは、たまたま近所に住んでいたという理由でしたっけ?)。これからもよろしくねー!


 その焙煎舎がある府中市、府中駅前の並木道は相変わらず… ではありません。並木道は無事ですが、府中駅前のステキな路地街はゴッソリ取り壊され、ショッピングモールか何かを建設中。いわゆる再開発っちゅーやつですな。なんという暴力的な街のつくりかえ方でしょうか? ぼくには馴染みの深い大阪のあべの橋筋も似たようなことになっており、さみしい思いをしています。経済効果? いまさら誰がそんな夢みたいなこと考えてんだ? 情けないですワタクシは。なるだけ行かないようにしたい。けど、いつか気になって行くだけ行ってみるのでしょうね。うーん。


 ダイバーシティ工房「READYFOR?キックオフイベント」は、満員御礼、でした(クラウドファンディング「発達障害の中高生に、社会性を育てるプログラムを届けたい!」の30万円も早々に達成していますが、残り1日です)。
 イベント内「ことばのワークショップ」は、戸惑い、疑問がまざり合う生々しい時間になっていた。なので結果、ぼくも一緒になって戸惑い、疑問にまみれ。でも、ちょっと「ゆる」すぎたかなぁ、という反省もありました。「ワークショップ」は、「風任せ」ではないのですが、それをどう言えば伝わるだろう? と終わってから考えていました。ぼくも勉強が足りません。
 就労移行支援「ユースキャリアセンターフラッグ」柴田泰臣さんの話、すごく勉強になりました。
 就労の際、自分の「障害」を「オープン」にするか「クローズ」にするかに関係なく、なんとかなる方と苦労する(←なんとかならないとは言わない)方のちがいの分析、「ほんとうに大変な方は人とのつながり、家族とのつながりすら希薄」といった改めての指摘や、「何より自分にとって大切な人から大切にされること」というメッセージ。「可能な人は、いわゆる健常者のものまねの練習をする」という提案(?)──つまり、「表面」をふるまうことができればそれだけで有利になることがある、それは処世術で、その人の本質を変えるものではない──など。
 自分としては、「等身大の自分を知る」ということのお手伝い(?)が、ワークショップという場づくりで、できればよいなぁ、などと考えました。が、「等身大の自分」って? 「自分」を大きくとらえることができればよいのかなぁ。

 市川での「ことばのワークショップ」は、10月から本格的(?)にはじまります。


 大田区を拠点にした「「外出」という仕事」も継続してやっています。この写真は、公私共にお世話になっている“まーちゃん”(“画伯”です)の母の誕生会をやったときのひとコマ。ぼくは少し顔を出した程度でしたけど、たのしかったなぁ。“まーちゃん”のことは、これから年末にかけていろいろ書くことになりそう。ワクワクする話なので、ご期待ください。


 その画伯からいただいたお皿。いいだろ〜。羽ばたいてます。なんだか励まされるよう。なので、お皿としては使わず(もったいなくて?)、道草の家の2階の、ぼくが作業する横のテーブルに置いて眺めながら仕事してます。ありがとう!


 大田区、吉祥寺、市川、府中と飛び回っているようですが、住んでいるのはもちろん変わらず横浜の、道草の家です。これはうちの最寄りの山手駅。仕事から帰ってきたところで、昼と夜の境目の、なんかいい写真が撮れたので。


 9月中旬からは、少し体調を崩したり(ことのはさんも調子が悪くて)、吃音の調子が最悪だったり、気分的にもなぜか沈んでいて、どうしたもんか? と少し悩みましたが、悩んでもどうしようもないことは悩んでも仕方がないので、開き直って過ごしていました。
 そんなとき、吉祥寺美術学院のアトリエでの毎週の授業は、自分にすごく良い波をくれています。
 センター試験までは、早くも残り4ヶ月。授業は、実戦へ向けた対策へと徐々に入ってきていますが、アトリエからは、単なる国語教師の役を超えて、学生の「創作」とか「表現」にかんするヒントを毎週持っていき、場合によっては学生より先に先生が「すごく参考になる」ような資料(ネタは書籍に限らず、新聞、小冊子、フリーペーパー、チラシ、レコードのライナーノーツ、ジャンル不特定のものまで、多岐にわたるのですが)を提供しているのがすごく評価されていて。ぼくとしては、それは「課外活動」ではあるものの、じつは彼らにとってはそっちが本分(本業?)で、授業そのものより、授業後の語り合いのほうが長くなったりすることも?
 9月のある週、自分に余裕がなかったので、たいした準備ができなくて、出かける前に、本棚(というよりも、本が大量に放り込んである押し入れ)を眺めて、ふっと目についたこの(上の写真の)本を持っていきました。青山南さんの『短編小説のアメリカ52講』という本。ぼくはもとになった本も読んで持っていて、ついでに(そのさらに元になった)雑誌連載時も毎月読んでいた。この本には、アメリカの大学における創作科(小説を書くことを教える場、いわゆるワークショップ)にかんするいろんなことも書かれていて。
 今回はその本から、ジョン・ガードナーが「良い教師と悪い教師」について並べている箇所とか(たとえば、「あまりにもワークショップ的なワークショップはダメである」だって、そうね、笑)、ジョン・アービングがカート・ヴォガネットに教わったけどヴォガネットは「干渉しない主義」だったとか、いろんな意見を言う人がいて、その背景にはあれこれあるんだって話を一緒に読んだりした。
 大学での「ワークショップ」のような場にたいしては、いろんな意見があるだろうけれど、小川国夫からのぼくらへのラスト・メッセージにもあったように、安心して小説の(美術の)話ができる「国」も必要で(ビジネスなど酷悪だという人ばかりのなかにいたら若いビジネスマンは耐えられない、それと同じ?)、どんなひどいワークショップでも、心理的理由により、ないよりはマシである、とガードナーは言ったそうな。
 で、ふっと思いついて、学生たちに「先生がどんな教え方をしているか、に着目したことある?」と訊いてみたりもしました。


 さてさて、お待たせしました。光海(こう)は、生まれて半年が過ぎました。はやいねぇ。すっかり大きくなって。毎日、元気に泣いてお母さんを困らせているそうです。まだ“ハイハイ”はしておりませんけど、もうすぐしそうな感じ? お父さんに“たかいたかい”をされるのが好きです。ハイ。彼を見ると、ぼくは救われる気がします。そんなもんですかねー?


 子育て、たいへんですけど、あのね、やっぱりかわいいです。未熟な父母だけど、周囲の人たちに助けられながら何とか暮らしています。生きていくために一番大事な技術(?)は、「助けを求めることができる」ようになることなんじゃないかと思ったりもして… 毎日のように「もうダメだー」とこぼしてます(?)が、あたたかい目で見守ってやってください。


 先日は大雨で、広島で信じられないような土砂災害があり、たくさんの死者を出して。数日前には岐阜〜長野の県境にある御嶽山の突然の噴火があり、たくさんの人が遭難死をしてしまいました。どちらも、いつ自分の身に起きてもおかしくないような、ショッキングな出来事で。幼い子供が誘拐されて殺されたり、自分と同世代の音楽家が自死したり、そういうニュースもショッキングで、いろいろ考えておりますけど、今回のふたつの自然災害は、それらのショックを遥かに超えていました。いま、我々は、“自然”をどう捉えているか、問われているような気がします。“自然”を制圧して、コントロールしようとしてきた結果が、この社会なのだとしたら… 自分たちがいかに無力か、もう少し自覚したほうがよいのではないか、とか。そうすれば、いろんなことが少しはマシになるんじゃないか、とか。火山のことも、ぼくは幼いころから火山のある街で過ごしてきたのに、けっこう知らないことだらけで、ニュースを見るのにもすごく勉強になります。勉強しないでニュースを見たら、いかに噓が多いか、ということにもずっと注目しています。


 10月は、またいろいろと新しい動きがあると思います。ここで発表することもいくつかありそう。どうぞお楽しみに。というか、自分も楽しみです。

 道草の家では、この夏に買った蚊帳を、相変わらず吊って寝ています。蚊帳を吊ると光海がぐっすり眠れるようで、ことのはさんは「年中でもいい」と言っておりますが、案外それもいいかも?

2014年9月5日金曜日

「ことばのワークショップ」(2014年8月30日)報告記

 宇宙のあらゆる場所で、人を含むあらゆる生物(もしくは鉱物、浮遊物とかも)が、それぞれの孤独を抱え、確実な受信の当てもなく、発信を続けている。そして何もそれは、悲壮感漂うことではない。(梨木香歩『水辺にて』)

 9月になりました。こちらは秋のような日がつづいておりましたが、昨日あたりから、また少しずつ蒸し暑さが戻ってきています。とはいえ、着実に秋に向かっています。いかがお過ごしでしょうか?

 8月は、3月につづいて、「新・道草のススメ」を1ヶ月間、書きました。個人的には、書きはじめたときには想像もしなかった出来事もあり、いろいろな心の動きがあって、忘れられない月になりました。と、そこまでは読んでいるだけでは、わかりづらいかな? とは思いますが、ひきつづきアップしておきますので、え? やってたの? という方はぜひご覧ください。

 『アフリカ』最新号(第23号/2014年8月号)は、もちろん9月になっても10月になっても(なくなるまで)販売中。


 相変わらず、地味に一冊、一冊、売れています。お買い求めいただいた方々、いつもご愛読いただいている方々へ、ありがとうございます。こちらはすでに次号の原稿を読んでいる最中で、新しい試みにも、少しずつ手が出ているところです。しばらく停滞気味だったと自分では思っているのですが、ようやく、動き出すことができています。

 8月末には、ここでも少し触れていた「ことばのワークショップ」の最初のイベントをやりました。


 今回は、NPO法人ダイバーシティ工房(市川市)が運営する、ふたつの塾──スタジオPlus+と自在塾の中高生がターゲットです。
 スタジオPlus+に通っている人たちは、いわゆる“発達障害”をもつ人たち。“発達障害”とは何か? スタジオPlus+のサイトをリンクしておきましょう。今回は、“発達障害”の人も、そうじゃない人も集まってくれました。顔を合わせたら、みな、そこでは対等なメンバーになります。

 今回のワークショップ、開始前に、準備してあったテーブルや椅子を、すべて教室の隅に追いやって、ガランとしたスペースづくりからはじめました。会場となったスタジオPlus+市川中央教室には、さまざまな形や色をした椅子が、いろいろあります。到着した人は、好きな椅子を持って、教室の真ん中付近に集まって好きに過ごしていてください、ということにしました。そこから、ワークショップははじまっています。

 当日は、こんな“しおり”も配りました。シャレてるでしょ?


 さすが、魅力的な問題(?)を抱えたメンバー、時間通りにたどりつけない人、スタッフが電話をかけてようやく起きられて、走って向かってきた人、そういう人もいました。まだ到着していない人も数名いましたが、ぼちぼちはじめます。(最終的には6人、スタッフも合わせて9人のワークショップになりました。)

 まずは、企画者、ファシリテーターであるぼくの自己紹介から。まずは、自分は吃音者で、スムーズに喋ることができないこと、だから時間通りに進めることが(じつは)苦手なこと、など、自分の“弱み”の紹介から。
 そして、「ワークショップって何?」という話。「ショップって、店だよね?」と言った人がいました。「では、ワークは?」というと、「仕事かな?」。そんな話から。
 ワークショップとは? いろんなニュアンスで使われるようですけれど、ここでは、「先生が教える」のではなく、「みんなで学ぶ」時間や場のこと。なので、ぼくは先生ではありません、ワークショップには先生はいません。なんてことを言ったら、スタッフも一緒になってポカンとしていたようでした(笑)。

 そこからワークショップの本編。同じ塾に通う人同士でも、じつははじめて会う人たちばかり、とのこと。自己紹介からやりましょう、と。自己紹介というと、なんだか堅苦しい気がして、当日は「お互いのことを話す時間」と言っていました。

 名前と、最近興味があること、とか、マイ・ニュースを少し話してください、ということにしてお喋りをはじめたら、好きな色について語りはじめる人、アルバイトの体験談を話す人、遠くから引っ越してきたことを話す人、自分の性格について話す人、いろんな話がでました。これだけでも、けっこう面白い。

 それからその日のメイン・テーマは、「音を聴いて、何か書いてみよう」というもの。

 ぼくの準備して行った“自然音”のCDから、リクエストを募って、マレーシアのジャングルの一日を編集した7分ほどの音に、全員で耳を傾けました。

 そのあと、紙とペンを持って、各自、教室のなかの好きな場所(個別ブースや、歓談のできるテーブルが散らばっている)に行って、短い作文をします。

 その作文のあとの語り合いは、とっても自由で、充実したものになりました。今回は短い時間でしたから、じゅうぶんには書けなかったでしょうけれど、短い時間で、パッと出てきたものを書きとめるという作業は、じつはかなり面白いものです。

※今日は時間がなくなったので、ここまで。つづき、また書きます。

※最後にお知らせですが、今後つづけていく「ことばのワークショップ」の「発達障害の中高生向けのSSTプログラム」にかんして、「READYFOR?」での寄付募集がはじまっています。

 今回は「30万円」という数字を掲げてあります。けれど、もちろん見定めている目標はその先、持続的な「場」や「プログラム」を育てていくこと。関心をもっていただける方にはいろんな方がいて、そこにはいろんな応援の仕方──かかわり方があると思います。

 まずは、ぜひご覧ください。私自身、今回「ことばのワークショップ」を通して、彼らのあたたかい「場」に触れ、堅実な仕事ぶりを感じていて。よいパートナーになれたらいいなぁと思っています。何よりも、集まっている「人」たちが、何だかいいんですよ!

 9/13(土)には、今回の「READYFOR?」にからめて(一般向けの)イベントも開催して、私はワークショップの縮小版を実際にやる予定になっています。

2014年8月28日木曜日

【特集】『アフリカ』第23号(2014年8月号)

 今のわたしは、滔々と続く大きな力そのものを「神さま」と感じている。それは自然であったり、自分の力が到底及ばないもの全てであるとも言える。(高城青「とうとうと神さま」〜『アフリカ』第9号/2010年5月号)

 さて、おまたせしました。『アフリカ』最新号(第23号/2014年8月号)、本日、珈琲焙煎舎にて発売。焙煎舎の「のんびり日記」でも触れてもらってます。店主、よろしくお願いします!
 定期購読の皆さんや関係各位へは昨日あたりから届きはじめて、遠方の鹿児島、沖縄などの方へも今日あたり届くころと思われます。今回も、どうぞ急がず、ゆったりページをめくってみてください。もちろん、ざっと流し読みもできますが、ゆっくり読むのがオススメです。


 さ、なんでしょう? “セイウチ”号です(左は貝、三崎の海岸で拾ってきたもの)。「さんざん遅れておいて、悪そうな目つきがいいね」なんて言った人がおりますが。今回もいつも通り、向谷陽子の切り絵が飾ってあります。今回はけっこう難しい作品だったようですが、力作です。実物でじっくりご覧ください。

 雑誌の表紙には、執筆者たちの名前とか作品名とかが書き連ねてあるのがぼくは嫌いなので(多くがやっていることはできるだけやらないというテーマがありまして)、このように雑誌名と、発行月だけ。おかげで、何の雑誌なのか、表紙を見ただけではサッパリわからない、なかなか売れない、という苦労をすすんで買うことになっています。
 でも出会う人はしっかり出会って買ってくれます。
 定期購読は嫌で、毎回注文して、「待つ」のが楽しみだ、なんて言う方もいらっしゃいまして、それはすごーく『アフリカ』の読者らしい読者だと感心して見ております(笑)。
 すべての読者の方へ、いつもありがとうございます。

 今回は、予告通り、「お詫び広告」からはじまります。それはまぁ、手にとって、見てのお楽しみ、ということで。


 何度も申し上げているとおり、今回は高城青を大きくフィーチャーしています。青さんのファンの皆さん、お待たせしました。そういう方はきっと、エッセイだろうが小説だろうが詩だろうが漫画だろうが、何でも同じように(?)読んでいる方だろうと思います。本人は「自分のばっかりこんな載せて大丈夫やろーか?」と不安がっておりますが、大丈夫、きっとそういう偏りのない読者が『アフリカ』を真ん中で支えてくださっていると思うので。ある意味では、下窪俊哉より『アフリカ』らしい書き手ですよ。と、編集人は自信をもってお届けします。

 まずは、エッセイ(本人が言うところの「文字」)とイラスト。「らせん見る夢」は、高城青の“創作”活動の原点といま、を書いています。


 下窪俊哉「さまざまな歌」。ぼくは今回、久しぶりに掌編小説というか、絵でいうところのスケッチのような小さな作品を書いています。「高城青と、あとひとり」で、少し触れてもらっていますが、青さんによると「静かな時間が流れる掌編」だそうです。


 高城青の小特集、題して「高城青の、暮らしと作品たち」。冒頭は、旧知の犬飼愛生による高城青の「ひと」について。「顔」というエッセイです。


 最近はすっかりお馴染みのエッセイ漫画「それだけで世界がまわるなら」は、大盤振る舞い16ページ!(全48ページ中の16ページです。)
 今回は、30代半ばにして運転免許証をとろうと自動車学校に通ったエピソード。とにかくたくさんの人が出てきます。「家族の話」だったこのシリーズも最近、外へ飛び出して何かと精力的な気がします。

 下窪俊哉によるインタビュー「小さい目立たない救いの話にしたかった──高城青との対話」では、高城青というペンネームの由来から、描き(書き)はじめた原点の話、『アフリカ』との出会い、その後のエッセイ、イラスト、漫画などの作品について、その舞台裏について、ひとつひとつ回想しています。

 今回は、あと過去の作品として詩を一篇、載せています。「紅(あか)」という、いまはなき『詩学』からの転載です。


 そして、これもお待たせしました。芦原陽子の「妊婦体験記 - 後篇」。先ほどの青さんのブログによると、「出産にまつわる出来事や心の動きがつぶさに書かれていて、非常に読み応えがあります」。

 編集人は、今回のこの号が、ぼくたちの息子・光海の誕生記念特別号(?)にならないようにしよう、と思っていました。でも、子を産むこと、いや、子が生まれることがどういうことか? とか、子をもたない選択をする人もあり、子を産めない人もいる、さまざまな生があり、さまざまな死がある、そういうことを、少しでも出しておけたらいいなぁと思ってもいました。

 この話は、また次号へつづきます。


 というわけで、今回もぜひ一家に一冊。と言いながら、今回も部数が少なくて、多少は残るように必死で宣伝をサボっておりましたが、何かあると一気になくなりそうな部数しかありません。絶対に読みたい! という方はぜひお早めに。

 次号からはもう少し増やそうかな? と思っておりますが、もちろん内容も少しリニューアルして、というつもり。で、今回はひとつの区切りになるか、どうか。それはまた次号のお楽しみ。まずは新しい“セイウチ”号を可愛がってあげてください。よろしくお願いします!

2014年8月26日火曜日

【イベント情報】ダイバーシティ工房「READYFOR? キックオフイベント」に参加します!(9/13)

 人を信じよ、しかしその百倍も自らを信じよ。(手塚治虫)

 横浜は今日、急に涼しくなって秋のようになっています。いかがお過ごしでしょうか? 夏も、もう終わりますね。

 さて、『アフリカ』最新号(第23号/2014年8月号)、無事に完成して、定期購読の皆さん、関係各位へは発送されているので、そろそろお手元に届くころかと思われます。今回もぜひゆっくり、くり返しお楽しみください。──で、その話をしたいところなのですが、その前にこの話題から。

 先日、NPO法人ダイバーシティ工房(市川市)の運営する「スタジオplus+」にて、これから「ことばのワークショップ」という時間をつくっていくという話(「「ことばのワークショップ」をはじめます」)を書きましたが、まさに私の(私も)担当しようとしている新しいプログラム──中高生向けSST(ソーシャルスキルトレーニング)にかんして、不足している運営資金を、クラウドファンディングサイト「READYFOR?」で募ることになりました。

 それに連動して、9/13(土)の午後、イベント開催が決まっていて、そこで「ことばのワークショップ」の短縮版を実際にやってみることになっています。現在、参加受付中ですので、興味ある方はぜひご参加ください(要申込)。

 詳しくは、ダイバーシティ工房サイトのインフォメーション あるいはFacebookのイベント・ページ をご覧ください。


 ※写真は、会場となる「スタジオPlus+」市川中央教室。7月にオープンしたばかりの新拠点です。(ダイバーシティ工房Facebookページより転載)

 大人の「発達障害」とはどんなものなのか? とか、中高生向けの「自分への理解」や「(自・他との)コミュニケーション」や「表現」をめぐる場づくりの重要性を、ともに考える、よい機会になりそうです。

 「ことばのワークショップ」は、今月30日に開催するイベントの縮小版(ダイジェスト版)のようになる予定なので、それがどんなものかは、また報告しますね!

 ぜひご注目ください。よろしくお願いします。

 『アフリカ』最新号、珈琲焙煎舎での販売開始が明後日・木曜(8/28)になりましたので、明日、詳しいことをここで触れようと思います。またぜひご覧ください!

2014年8月12日火曜日

「ことばのワークショップ」をはじめます。

 小手先の技ではなく、書くモチーフを自分の中に明らかにし、創造的に表現していくために、イメージ瞑想や、同じ情景を思い描くにしても視点をあれこれ移してみるなど、自己を見つめる様々な手法が繰り出される。書くことで、自分でも気づいていなかった自分の奥深いところまで旅することができる。未消化な体験を深く味わいなおしたり、見方を変えてみたりできる。それは深い気づきや癒しにまでいたる。(中野民夫『ワークショップ』)

 ところで、これから、「ことばのワークショップ」をはじめます。「ことばのワークショップ」、何それ? という話は、徐々に書いていきたいのですけれど、今日はそのとっかかりだけ、書いておこうと思います。

 数ヶ月前、あるサイトを通して、千葉県市川市を拠点とするNPO法人ダイバーシティ工房という人たちを知り、その後、不思議な縁ができて、これから通うことになりそうです。
 そこで、これから開催しようとしているのが、「ことばのワークショップ」。
 もともとは、ぼくが自己紹介のなかで、「ことばのワークショップ」(のようなこと)をやっている、ということを書いた(話した)のでした。これまで複数の場所で、受験の「国語」を教える傍らで、若者たちを相手に書いたり、話したりするいわば「ワークショップ」の時間を自然につくっていました。そのことを今回、「ことばのワークショップ」ということばで表現したら、「それ、やってみませんか?」という話の流れができました。

 NPO法人ダイバーシティ工房については、じつにいい雰囲気の団体なので、ぜひコチラをご覧ください。NPO法人化は2012年ですが、彼らの運営する「自在塾」は、代表理事の不破牧子さんの父親が1970年代にはじめたという、とっても「家庭的」な塾。数年前から、発達障害の子ども専門の塾「スタジオplus」も立ち上げて、先月(7月)には市川駅前に新拠点(市川中央教室+事務局)を構えたばかり。「ことばのワークショップ」の舞台となる予定の場所は、その新拠点(スタジオplus)のほうです。


 「ことばのワークショップ」は、「書く」こと、「話す」ことを通して、ひとりひとりが抱えている、いろんなことに自らが気づいたり、目を向けてあげたり、見方を変えてみたり、呆然と眺めてみたり、ということをする時間です。今回、はじめるワークショップも、たぶんそうなります。けれど、それはあくまでもこちらの狙いなので、こちらが想像もしなかった、おもしろい展開があっても全然OK、というかそれはむしろ嬉しいです。

 今回はひとまず、「スタジオplus」に通っている中・高生を中心に声をかけて、今月末に開催する「お試し企画」からスタートする予定になっています。
 お互いのことを話したり、「ワークショップ」って何だろう? どうしたい? を少し話してみたり…
 それから、夏の終わりに涼しい部屋で、世界中のいろんな場所で録音された「音」に耳を澄まして、自分の好きな音とか、香りとか、景色とか、時間とか、そういう感覚の話をしたり、少し書いたりする時間になりそう。


 一方、三年目の夏を迎えている吉祥寺美術学院のアトリエでは、今週、恒例の「作文セッション」をやる予定です。
 今年のテーマは、「自作解説をしてみよう!」。
 最近、若い彼らを見ていたら、「言語化」の作業が足りないような気がしていて。やってみれば? というのは簡単だけれど、実際にやってみるとどうなるんだろう? というのは、ひとつ場をつくってみてもよいのではないか? とずっと考えていました。
 「意識的になる」ことで、「無意識」から生まれるいろんなことも、より生きる、とぼくはちょっと考えてもいます。

  *

 よくよく考えたら、『アフリカ』では、「ことばのワークショップ」や「作文セッション」のなかでやるようなことを、ずっとやってきているような気もします。それがなければ、おそらく生きなかっただろうと思うようなことがたくさんありますから。

 で、この手の企画は、ぼく自身、とっても興味ありますし、あまりやれる人の少ない仕事だというような感触もあり(無知なだけかもしれませんが)、今後、ちょっとひろげていきたいと思っています。

 詳細、またいろいろ報告していけたら、と思っています。

言い訳のリスト──『アフリカ』第23号(2014年8月号)の予告

 競争しない。自分で走るだけ。(中村好文)

 ずいぶん、更新が空いてしまいました。いかがお過ごしでしょうか? 今年もあっという間に、夏。世間はお盆休みだそうです。こちら、そういうのとぜ〜んぜん関係なく(?)過ごしています。ここではお伝えしそびれていましたが、今月、また「新・道草のススメ」を書いていますから、そちらもぜひご覧ください。

 さ、なにはともあれ、『アフリカ』の話を。

 『アフリカ』〜曰く「日常を旅する雑誌」〜愛読者の皆様、たいへんながらくお待たせいたしました。最新号、ようやく完成して、印刷・製本所へと旅立っています。8月25日発売という予定です。定期購読者の皆様への手元へも、その前後にはお届けできると思います。
 2006年の創刊から、2011年までは、だいたい年に2〜3回。2012年からは、隔月を目標にやってきて(それだけ出したい原稿があった)、それが昨年2013年から少し「のろく」なり、今年になってからは、1月に22号が出た以降、7ヶ月も空いてしまいました。
 で、ここから先は言い訳です。
 まずは、幼い子を夫婦で育てている編集人一家の事情が大きい。『アフリカ』は、ほとんど編集人の独裁(そうするしかない事情で)なので、編集人の都合が大きく影響してしまいます。やむをえない。ご了承いただきたく。
 ただ、今回は、それだけでなく、『アフリカ』自体が、いま、また変わろうとしている時期だということもあります。「つづける」ということは、「変わっていく」ことを是としていることだ、と話してくれた方が数名、おられます。ほんとうに、そのとおりだと思います。
 変わり目の号。考えていることを、すべて表現するには、もう少し時間が必要でした。その前に何ができるか… と考えて、いま元気な書き手のひとりにたくさんのページをさいて、特集… とまではいかなくても小特集くらいのことならできるだろう、と。
 で、声をかけたのは、高城青。
 最近の『アフリカ』では、お馴染み「エッセイ漫画」を継続して描きつづけています。
 彼女の新作──漫画、エッセイ──や、旧作の詩のほか、旧知の犬飼愛生さんによる高城青の「ひと」についてのエッセイ、下窪俊哉による高城青インタビューなんかも載ってます。こういう企画、『アフリカ』では、ありそうでなかったでしょう? インタビューは「小さい目立たない救いの話にしたかった」というタイトルですけど、いかにも『アフリカ』らしいと思いません?

 詳しいことは、また発売のころにでも。ひとまずは、目次をアップしてます。

 それにしても、光海が生まれる前の1月に出してから7ヶ月、ほんとうに長かった。とくに大きなトラブルがあったとかではないのですが… 何もなくて出来なかったので、なおさら苦しかった。トーン・ダウンしそうだった、と言えなくもないですから。今回は、なんだか「できた」という気がしません。この手の雑誌で、普通の雑誌なら、ここで終わるのかもしれません。でも、そこは『アフリカ』!(相変わらずよくわかんないけど…)しかも編集人は、危機になると張り切り出す人で… 苦し紛れのアイデアをいくつも出してくる。『アフリカ』の神さまも、「そこまで言うなら、まぁ、しゃあないなぁ」と言って、許してくれるみたいです(なんだそりゃ?)。

 何かわかりやすいテーマをたてて、それにふさわしい書き手に声をかけて、書いてもらう、という雑誌のつくり方は、いまも昔も、雑誌業界(?)の主流と言っていいでしょう。あるいは、その雑誌の読者(層)にウケそうな有名人に出てきてもらい、買ってもらう、とかね。書店やコンビニに置かれている雑誌の大半(すべて?)はそうです。また、ぼくの見ている限りだと、ミニコミ誌のような冊子も、多くがそれの真似事です。真面目な「プロ」ほど、それを踏襲するしかなくなります。逃れられなくなります。
 でも、それでは面白くない。そんなことでは、似たり寄ったりのことしかできません。内容が、つくり手にコントロールされている部分が大きくなるし。つくり手にコントロールされすぎた作品は、ほとんどの場合、完成したときには息をしていません。それでは、たとえいかにきれいに整えられたものでも、ダメだ。少なくともそれは、ここでやることじゃない。
 似たり寄ったりのことになる──時流に迎合するようなことは、商売をするうえでは、大切なことなのかもしれない。でも、時流に迎合している人たちに、自分が時流に迎合しているという認識に立ってやっている人がどれだけいるか? と思ったりもします。内容の前に「手法」が、そうなっているということに意識的な人が…
 何か、もっと、我々の生活に密着した「つくり方」をしていきたい。そのためには、そこで書いている人が、そこに書くのに必然性をもった人でないといけない。そして、有名性とかブランドとかには左右されない、たくましい「読者」を育てていきたい。
 なんて、ちょっと大きなこと(?)を言っていますけど、まだまだ、これからです。

2014年6月13日金曜日

ゆっくり、ゆっくり

 何年も逃げてばかりいた。何度願ったことだろう。このままでいられたら。(ブライアン・ウィルソン「レイ・ダウン・バーデン」)

 いかがお過ごしでしょうか。今年も、雨の季節がやってきました。今年は、何やら、本格的な雨の季節になっています。雨、雨、雨、雨、雨、雨… で。今夜は、久しぶりに晴れた空がひろがって、静かです。月がきれい。今日の昼ごろ、満月になるとか。

 昨日で、光海が生まれて、3ヶ月がたちました。まだ、3ヶ月しかいないのか、と思うと不思議な気がします。もうすっかり、道草の家の子です。彼がいなくては、成り立ちません。よく泣き、よく笑い。


 ぼくは毎日、母子が寝て、深夜くらいから仕事をする日がつづいています。朝にやってもよさそうなものですけど、朝に弱いもので…

 『アフリカ』は、どんどん遅れています。5月号と言っていたのが、6月号になり、さらに7月号まで延びそうな雲行きです。ほんとうに、こういう時期で、しかも「日常を旅する雑誌」になっちゃいましたから、やむをえず。定期購読者の皆様はじめ(ぜんぜん「定期」じゃない!)、お待たせしております。こんなに空くのは久しぶりですね。
 しかも、なんとなくですが、今度の号から、『アフリカ』は、また新たな段階へ突入するような気がしています。
 編集者のなかでは、こうなっています。事実上の(?)創刊号だった2006年8月号から、2009年4月増刊号までが第一期(この後、書き手の大きな入れ替わりがあった)。第7号(2009年7月号)から第13号(2011年12月号)までが第二期(その間に大阪から府中への大移動もありましたが)。「道草の家」へ移ってからの第14号(2012年5月号)から第22号(2014年1月号)までが第三期、…ということになる予感がしてます。
 では、第四期は、どうなる? まだぼくもよくわかっていませんが、『アフリカ』ファンの皆様はたのしみにしていてください。


 いつもあたたかく見守っていてくださっているご近所さんから、紫陽花をいただきました。道草の家のまわりでは、紫陽花が咲き誇ってます。道端にもたくさん!


 紫陽花の葉と一緒に、マイマイ(カタツムリ)の子がついてきていました。必死で逃げようとしている(?)ところ。


 機嫌のよいときには、なにやらよく喋っています。さすが、道草の家の夫婦の子です。でも、まぁ、ゆっくり成長してネ。


 新企画もいろいろあるんですけど、まだ書けないことだらけで。急ぐ仕事と、急がない仕事があり、でも、どちらも、気持ち的にはゆっくり、ゆっくり育てていきたいと思っています。